人間学を学ぶ月刊誌より引用。 天 我が材を生ずる 必ず用あり―――唐代の詩人・李白の言葉である。 材には才能の意味もあるが、身長の意味もある。後者の意を採れば、天は自分という人間をこの世に生んだ、天が生んだ自分には必ず用、即ち役割、使命がある、と解釈できる。
(中略)
森信三師の言葉がある。 「職業とは人間各自がその生を支えると共に、さらにこの地上に生を享けたことの意義を実現するために不可避の道である。 されば、職業即天職観に人々はもっと徹すべきであろう」 心したい言葉である。仕事を生活の資を得るためにだけやっている人と天職と心得て打ち込んでいる人。その姿勢の違いは五年後、十年後、人生の充実度の大きな差となって表れてくることは論を待たない。 そしてもう一つ大事なことは、「休まず、続ける」ことだろう。 「大学の大禁忌は作輟(さくてつ)にあり」と吉田松陰はいっている。学問を修めていく上でもっともよくないのは、やったりやらなかったりすることだ、というのである。自明の理であろう。
(中略)
昨年、将棋の永世七冠を獲得した羽生善治氏の言葉は、このことを具現したものとして忘れ難い。 「十年、二十年、三十年、同じ姿勢、同じ情熱を傾けられることが才能だと思う」 自らの用に目覚めた人ならではの言葉である。
スポーツ・部活指導のみが職業になってはいけないだろうが、スポーツ・部活指導をも職業だとする“志”を忘れてもいけないのでは。 そして最後にこう結んでいる。
心に夢、理想を持ち、それを実現すべく、倦まず弛まず、焦らず驕らず、精神を仕事に打ち込んでいく人に、天はその用を知らしめてくれるのではないか、と思うのである。
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