昨日の草野塾頭のブログで、体育会系の大声での挨拶が話題になった。
確かに自分自身の体験からも、学生時代に指導者やOBからのありがたい言葉に対し、左右の耳で聞くよりも、大声で「ハイ!」といつ言おうかタイミングを計っていた記憶がある。話の内容などは、二の次、三の次であった。
今、立場が入れ替わり偉そうに小言を言ったりする時の選手達の「ハイ!」が、つい民謡を歌う時の“合いの手”「さぁ~よい!よい!」のような心地よいリズムに感じるのは、単なる歳のせいだけだろうか?
塾頭のブログを読みながら、自然に言えない言葉に「ごめんなさい」があるような気がした。
大人から子どもまで「ありがとう」は連発する。プレゼントされた時はもちろん、自分自身が得をした時に言える言葉。ようは甘やかされている時に簡単に出るのである。
「ごめんなさい」と同じように使われてしまっている「すいません」。辞書を引くと、『骨を折らせたり、世話をかけたりする時、その労をねぎらう言い方。「すまない」の丁寧語。それでは私の気持ちがすまない、の意』とある。つまり「すいません」は直接の謝罪ではなく、自分の気持ちのすまなさだけを伝えるだけでいい場合に使うようだ。
子供同士の小さな出来事や遊びの中の些細なことで、お互いが謝る時に「ごめんなさい」といえば済むことが、なかなかいえないことに遭遇することがある。大人の社会もなおさら、お互いが自己主張とばかり自分の正しさばかりを訴えることが多くなる。
その人が生きてきた環境の中で、その言葉を言わねばならない場面がどれだけあったか、それで大人になってスムーズに出るかどうかが決まる。ただ甘やかされると、「ありがとう」も「ごめんなさい」も言えない。躾はきちんとされてきても甘やかされると、「ありがとう」は言えるが「ごめんなさい」がどうしても言えない人になるようなのだ。
自分の気持ちのすまなさだけを伝える「すいません」の連発だけでなく、自然に使えたほうが幸せになる「ごめんなさい」。やっぱり言葉も自然体がいい。自分はそれが言える人かどうか、今あらためて見つめなおすのも悪くはない。