左右の手を同時に使っての作業は多く、誰もができると思いがち。包丁を使って菜っ葉を刻んだり、パソコンのキーボード操作やピアノの演奏などは極め付けか。少し練習を重ねれば小学生からでもほどほどできるのだが、次第にその差は明らかになっていく。素早い千切り始まり、パソコンのタッチタイプ、ピアノコンクールの優勝などのように。
このように上級者になるためには格段の練習の量が必要なのに、なぜかバレーボールのオーバーパス、トスはどこか誰もができて当たり前の感はないだろうか。いきなりのセッター役により高くボールを上げることや、ネットから近すぎたり遠すぎたり、アンテナまでの遠近の距離であったり、いきなり結果だけを求めてしまうのは、両手を使っての行動だからもっと緻密にできるのではないかと錯覚した要求ではなかろうか。
発育発達に沿った生理学でも、手足の自由度は最も大きく、個人差も現れやすそうだ。両手の協調性、脱力、器用さ、しなやかさ、まだまだ両手に隠されているキーワードはたくさんあることだろう。感覚器のひとつ、触覚が最も密に存在する指先ならではの機能を上手く利用したトレーニングやドリルをもって、手に覇者をかけたいところ。メークアーティストによれば、洗顔ソープを使い両手で顔を洗う行為にも優劣があると聞く。